月の赤い夜だった。

 魔が騒ぎ、闇が深まり、形を得た恐怖が蔓延るBloodyMoonの夜。

 この日ばかりは魔界からの来訪者である悪魔たちが妖精たちの優位に立つ。
 普段は異端の存在である悪魔を妨害するこの森の原住民である妖精たちは、人を生きる糧とする悪魔に比べて人に友好的だが完全な味方でもない。
 殺されるくらいなら一時の優勢などあっさりと明け渡し、妖精王オベロンの加護を求めて姿を消してしまう。

 だから今この森にいるのは俺と野生の動物ぐらいで、完全に日が暮れる前に隠れ家に戻らないと危ない。

 何度も経験して分かっていたことなのに、その日の俺は森の奥に入りすぎていて日が暮れた事に気づかなかった。
 老梟の声に時間の経過を知らされて慌てて帰路についたのだが、悪いことは重なるものだ。

 森に響く動物のような鳴き声。
 木々の合間から見えるこちらの世界には存在できない造形。
 それが悪魔だと視認したのと、連中がこちらに気づいてその牙を剥いたのは同時だった。




 やばい・・・!

 ”国”は国を構成するものが無くならない限り不死の存在だ。怪我も病気も老いもするが、死ぬということはない。
 しかし、それはこちら側の世界での話であって、異世界の存在であるソレらによって受ける影響がどこまで及ぶものなのかは誰も分からない。

 つまり、万が一にもあってはならないことだが、悪魔によって”国”が殺されることによって国が消滅してしまう可能性だってあるのだ。

 逃げなくちゃ!

 恐怖と焦燥に混乱する頭。
 理性が押し込められ露呈する本能。
 人であるならば頭が真っ白になって気絶するであろう状況に至って、イングランドは”国”としての本能が促すがままに背に負った弓を構え矢を放つ。

 至近距離で放たれた矢は精霊の加護と共に牙を剥いて迫っていた悪魔の頭を貫き、その勢いのまま後方の木にソレを縫いとめた。


 ぐぎゃあああああぁぁぁぁぁ!


 耳障りな悲鳴が響く。
 鼓膜を叩くそれに怯んだイングランドは、思わずその場に蹲った。

 それが、間違いであった。

 遠くから近づいてくる奔る音。
 揺れる茂み。
 なぎ倒された木の音と獣たちの鳴き声。

 ぞわりと身のうちからこみ上げた危機感に顔を上げたイングランドの目に映ったのは、どこからともなく集まってきた悪魔達の姿であった。

 仲間を呼ばれたっ・・・。

 慌てて身を翻そうとした横っ面を悪魔の長い尾が殴り飛ばした。

 軽い子供の体は容易に吹き飛び、地面にバウンドしながら転がっていく。

「う・・・・・・」

 伏した体でかろうじて開いた目に見えるのは煌々とした獣の眼光。
 あきらかに不利な状況において、イングランドは手放す事のなかった弓を強く握り締めた。

 死にたくなかった。
 兄に疎まれ、海の向こうから来る奴らは敵で、妖精と動物だけが心の拠り所だった。
 死にそうになったことなど片手では数えられない。
 だが、それでも生きたかった。
 それは”国”の本能であり、幸せを望んだ子供の希望だった。

 きしむ体を動かして矢を番える。
 最後まで足掻いて見せるのだと見据えた視線の先。

 今まさに自分の体を引き裂こうと爪を振り上げた悪魔は、イングランドが矢を放つよりも早くに何者かによって切り裂かれて倒れ伏した。

「なっ・・・」

 目の前の光景を受け入れられずに呆然とするイングランドの目の前で、一体また一体と悪魔が屠られていく。

 少しずつ開けていく視界。
 その先に居たのは臓腑のような赤黒い大剣を持ち、紫の鎧に身を包んだ騎士だった。

 何者なのだろうと見上げていると、彼はゆっくりとこっちを振り向く。 
 その風貌は、人には有り得ぬ異形だった。

「あ、くま・・・」

 鎧だと思ったのは、その悪魔の外皮であったらしい。
 人にはありえない金色の瞳がイングランドの姿を捉え、止まる。

 思わず呟いたイングランドに、なんらかのリアクションを返すことは無かった。
 格好の獲物のはずのイングランドを襲うでもなくただ見下ろしている。

 助けられたのだろうか。
 それとも、何か目的があるのだろうか。

 互いに、どう動いていいか分からなかった。

 困惑は恐怖以上に動きと思考を支配する。

 だから、彼が身を翻してこちらに近づいてきたとき、イングランドは思わず構えたままだった矢を彼に向けて放ってしまったのだ。
 イングランドの背後に迫っていた悪魔にも、その悪魔からイングランドを助けようとした彼の意図にも気づかずに。

 彼は矢をかわすこともなぎ払うこともしなかった。
 無防備だった腹に突き刺さる矢に構わず、ただ真っ直ぐにイングランに覆いかぶさるように迫り、その背後へ剣を付きたてたのだ。

 どちゃりという水気を帯びた肉塊の落下音と断末魔が聞こえ、そこでようやく助けられたのだと気づく。


 それはこれまでの常識では考えられないことだった。

 人が人を殺すように、悪魔が悪魔を襲うことはある。それは縄張り争いであったり、闘争本能によるものであったり、空腹による共食いであったりと理由は様々だ。
 しかし、殺される頻度であるならばやはり人のほうが多い。アレらにとって人は遊びがいのある玩具であり、味と質のいい食料であるのだ。
 イングランドの目が届くのは彼の生きるこの地域だけだが、情報だけならば彼の友人である妖精たちが教えてくれる。だがその豊富な話の中には”悪魔召喚師”という悪魔と取引をして力を振るう魔術師の話だってあったが、自我をもった悪魔が自主的に人を助けたという事例などあったことは無い。

 そのただ1つの例外が今、目の前にある。




 それが、初めての出会い。

 人を救おうとした異端の悪魔との縁の始まりであった。