魔界にも繁忙期、と言うと少々意味合いが違うが、所謂ごたごたが続く時期というものが存在する。

「この政策はダメだ。10年前の計画を洗いなおして書き直せ」
「はい」
「こっちの統計は何を指標にしている?数値の標準偏差が大きすぎるぞ」
「それについてはこちらを」

 室内に控える文官に書類を渡し、プロイセンが差し出した資料を覗き込む。

「・・・これか。ならいい。このまま煮詰めろ」
「はい」
「こっちの治水と護岸の対策案に関しては練り直すように伝えろ」
「はい」

 一折の指示を終えると、デスクの上には処理済の書類が積みあがる。

「失礼いたします」

 礼とともに書類の束を持った文官が退室するまでを見届け、出した資料を仕舞おうと書架へ向いたプロイセンの耳に小さい落下音が届いた。

 毛長の絨毯が敷かれた執務室では足音も物音もしない。

 なんだろうと音がした方を振り向くと、神聖ローマがデスクに向かったままうつらうつらと舟をこいでいた。

 ああ、ペンをデスクの上に落としたのか。

 ころころとデスクを転がって落ちていこうとするペンを受け止めて、緩慢な動作で目をこする神聖ローマの隣に跪いた。
 
「陛下。休憩になさいますか?」
「いや・・・まだ、大丈夫だ」

 そう言う声は掠れていて眠そうだ。
 体だけが子供の姿だといっても、そもそもが病弱な神聖ローマの体力はそうよいものではない。
 
 体調管理も自分の役目だと自負している身としては強制的にでも睡眠をとらせたいのだが、それは同時に兄の矜持を傷つけてしまう。ヘソを曲げた神聖ローマの扱いは面倒なのだ。

 どうやって気に障らずに休憩をとるよう誘導しようかと考えていると、ゆらゆらと睡魔に襲われて揺れていた体が前のめりになったまま動かなくなった。

「・・・陛下?」

 デスクに突っ伏して横に向けて伏せられた顔を覗き込むと、目を閉じて寝息を立てている。
 予想したよりも限界が近かったらしい。

 そっと首筋に手をあてるとゆっくりとした脈動と常よりも高い体温が伝わってくる。口元に手を持っていくと、やや熱っぽい息がかかった。

 微熱だからといって油断するとすぐに寝込むことになる。
 急を要する案件はないのだから、今日はこのまま休ませたほうがいいだろう。

 隣室で執務を行う文官たちに今日の王務は終了だと伝えると、彼らは慣れたことだと労いの言葉と共に了承を返した。
 誰も入ってこないように隣室と繋がる扉を施錠すれば、この空間は居住スペースとだけ繋がった2人しかいない密室になる。

 転寝した彼を寝室に運ばねばと思いながらも、視線は自然と無防備に晒された首に貼り付く。

 一度離した手を再びその細い首にあてる。
 武器を扱って出来た胼胝と戦歴で得た細かな傷を持つ指が人のものと変わらない薄い皮膚をそっとなぞった。

「そんなに無防備だと殺されちまうぞ」

 なんの感情も込めずに呟いた言葉は、思った以上に冷たい音となって2人きりの部屋に響いた。

 生命に終焉を齎すことを使命として生み出されたプロイセンの戦闘能力は高い。
 腰に携えている剣を抜くまでもなく、この首にあてている指に少し力を加えるだけで殺すことが出来るだろう。

 今ここで首という急所を触れさている彼はそのことを誰よりも目の当たりにして知っているはずだ。

 これは上位者の驕りか。
 それとも主の信頼か。
 あるいは兄の甘えか。

「・・・・・・」

 首にあてていた指を滑らして肩に移し、伏せた体を揺らさぬように抱き上げる。

 まだ10にならないくらいの小さな子供の体は軽いはずなのに、権威を示すためと華美な装飾を施された王衣のせいでそれなりの重量を感じる。

「・・・・・・重いな」

 子供なのは見た目だけで、実際はプロイセンよりも年上だ。
 だからその重さに憐憫を抱くのは身の程知らずな侮辱でしかない。

 それでも頭をよぎる、生まれたときから1人でこの重みを背負ってきた彼が見せた苦しみ。
 知っているのはプロイセンだけ。
 それが誇らしくこそばゆい、弟であり片腕としての誉れ。

 

                                                   魔王、眠くなる。


 お休み、兄上。いい夢を。