「お前、少しは休め」

 唐突な自分以外の声に動揺しながらも読んでいた書類から視線をはずして振り返れば、海の向こうの大陸にいるはずのプロイセンがこちらを見下ろしていた。

「な・・・んで、こ・・こに」

 時はナポレオンによるフランス繁栄期。イギリス・スウェーデンを除くヨーロッパは制圧され、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランスの属国化、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となっている。
 だから、プロイセンがここに来れるはずがないのに。

「クマができてるぞ」

 無骨な指で目の下を辿りながら、プロイセンの顔が不快そうに歪められる。とりあえず幻覚ではないらしい。

 ナポレオンのロシア遠征とほぼ同時に米英戦争が起こり、イギリス本国はかなり慌しい状態になっていた。ロシアとは第六次対仏同盟を締結。アメリカ相手はインディアンを味方につけたりカナダに支援を要請したりと、一応の目処が立ったためようやく本土に戻ってこれたのだ。
 とはいっても休む間もなく書類の処理におわれていたわけだが、人の気配に気づかないとは自覚している以上に疲れているらしい。

 ぼんやりと目の前の男を見上げていると、プロイセンが正面に回りこんできて顔を覗き込んだ。

「おい、大丈夫か?」
「・・・何の用だ」

 先ほどまでの戸惑った雰囲気とは打って変わって目に宿る強い色に、さすがは大英帝国と声に出さない感嘆を洩らす。
 外公用の硬く冷たい声に数歩下がって両手を挙げることで敵意が無いことを示した。

「・・・ロシア遠征についての情報だ」
「・・・・・・」

 沈黙するイギリスに話を聞く意志を見て言葉を続ける。

「ナポレオンが、負けた」
「何・・・?」
「ナポ公はこの情報を隠すつもりらしいが、敗戦の血の臭いはごまかせねぇ。じきにヨーロッパ中にこの情報は知れ渡る」

 すでにドイツはライン・プロイセン連合を通じて反乱を起こした。

「プロイセンはフランスに宣戦布告する。他の仏同盟国にもこれから呼びかける」

 反ナポレオン国は多い。不敗神話が崩れたことによってその動きは強いものとなるだろう。

「だから、少しは休め」

 アメリカが関わってきて精神的にやられてるだろ。
 大陸封鎖令だの軍事費だのでただでさえない体力落ちてるみたいだし。

 不安と文句をない交ぜにした言葉が耳を通り過ぎていく。

 ナポレオンが、負けた?じゃあ、フランスは・・・?

「イギリス?」
「・・・いや、なんでもない」

 長い沈黙にプロイセンが不信の色を伺わせる。それに首を振ってはぐらかすと同時に、浮かんだ考えを取り払った。

 余計な考えはやめよう。今は『忌々しい敵国を押さえ込むこと』を考えるべきだ。

「その話が本当なら、ロシアから知らせが来るだろう。味方は多いほうがいい。お前のことを話しておこう」
「ああ、頼む」

「ナポレオンを、今度こそ、潰す・・・!」

 1813年2月英露普による第六次対仏同盟締結。8月オーストリア、スウェーデン、ライン同盟諸邦参加。
 ナポレオン退位への始まりであった。